昭和41年02月15日 朝の御理解



 最近しきりと私の心の中に、こんな思いが募って参りました。と言うのはここにこうしておかげを頂くようになりましてから十五年間。なかには沢山の方達がここにご神縁を頂きまして信心を続けておる。又はご神縁を頂いてそのまま、大変なおかげを頂きながら、ここから離れていったり、疎遠になったりと言う人達の上のことなんです。最近それがしきりにその思いが強うなるんですね。そして私はあの思うのですけれども。
 私にこう言う様な、ま例えて言うならば、私の信心から離れていく人。御道の信心から離れていく人。そして離れていくだけなら良いけれども、いうなら私の事をまぁいうなら悪く言う人。椛目の事の悪口を言う人。そげな事がま耳に入ってこんでもない。けれどもそんな事言いよったちもと、言った様なものが私の心に無くなってですね。もうその人達の事が何かもう、しきりにこう祈らなければおられないという心なんです。又どうぞ椛目に帰って来る様にと言った様なものでは、さらさら無いです。
 本当に折角のご神縁を頂いておった人達が、そのご神縁をいわゆる神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るなと仰る、その氏子から切っていこうとしておる。また切っていっておる人達の事がしきりに考えられる。考えられるというよりも思われる。ですからま祈らなければおられないという訳なんですね。そして私が思うんです。ははぁこら今朝までご神縁を頂いて、信心の稽古をしておる人達が、いよいよ助かる事が出来るなと思うんです。私は信心とはそう言う様なものだと思うですね。
 二代金光様、四神様の元に、ある人がお参りをして、金光様例えて申しますならば、自分の子供がこけた。同時に他人の子供も転んだ。そういう時にはね。どちらの子を先に起こさせて頂こうという気になったら、信心でございましょうかと言うて、そのお伺いした時に、四神様が仰った。他人の子を抱きかかえて起こすような気になればね。その方の子供は神が起こしてやるわいと仰ったそうですね。自分の子供を起こしてもらうために、他人の子供を先に起こすと言った様なものではなくてです。
 例えて言うなら、その子供をですね。もう他人の子供も自分の子供も無い。けれどもやはり他人の子は他人の子であり、自分の子は自分の子であるからね。その思いにおいては、やはり自分の子が先に手が出るのだけれどね。けれどもやはり他人の子供の方へ、先に手を出さなければおられないという、そういう信心心なんです。例えば皆さんが商売をなさっておられるとね。同職の商売がありますとやはりそれは、商売敵とこう言う。その商売敵の相手の人達のことがです。
 心から祈らなければおられないように、まぁなって見えた時にはです。皆さんが助かっておられる時なんですね。ですからその助かっておられる、その心におかげがいやが上にも頂けると言う事になるですね。だから皆さんの心の中にです商売敵のことがですね。繁盛しよら腹の立つごたるものがある間は、まぁだまぁだ自分の本当おおかげは受けられん時だと、先ず悟らなければいけんと思う。
 昨日私はある会合に、会合と言うがある所に参りました。沢山な先生方が見えておられました。本当にあの心から例えば、椛目にはその見事なお広前が御造営になっておるそうですねと言うて、ま本当に喜んで下さったと感じたのは一人だった。沢山おられる中に。皆さんがやっぱ同じような事を言われるね。けれどもその何かそのそこに、次の言葉はまぁ何かもう、もやもやしたようなものが出てくる。形の上に言葉の上に。そしてはぁこの人達は、まぁだおかげ頂かっしゃらんのだなと私は思うのですね。
 その御道関係の方達は、もう先ずみんなちった、もやもやが感じられるんですねこちらに。響いてくるんです。私はひとりの先生というのは、その方は先生は先生だけれども、その他の先生なんです。元は御道の教師をしておられましたけれども、今はその御道の教師を止められまして、ほかの先生をなさっておられる。その方がもう心からその喜んで下さるですね。それがこちらに響いてくる。はぁこういう状態の人だから、この人が金光様の先生は辞めなさったばってん、こげんおかげ頂よりなさるとばい。
 大変なおかげを受けておられる方なんですね。ですからですこら厳密に、ほんなら皆さんのことに言うてもですよね。只今私が申しますように相手が相手ならと、と言う様な心では、本当の皆さんの助かりになってない時なんです。相手がどうであってもですね。その人の事を祈らなければおられないようなものがです。これに生まれてくる時、私はもう助かっておる時なんですね。
 私はよくあのむつやの石井さんが、若きころにもうそれこそ長年信心はしておりましたけれども、さぁ大売出しともなるとですね。もう口のここら辺がこう荒れてね。のぼせてしまうわけなんです、その大売出しと言う事になりますと。それで忙しいからのぼせるのじゃなくてですたいね。もうさぁ大売出しだと言いよるのに、自分方にはお客さんが入ってらんで、他所の店にでも入っておったり、他所の包み紙を持って、前をうろうろされるのを見ると、もうそれこそどうにもこうにも出来ん。
 そのものが心のなかに湧いてきたち言う。それが最近椛目のご縁を頂くようにならせて貰い、本当に教えが段々身に付いてくるようになりましたらですね。田主丸の町があぁして繁盛しておると思うたら、もうその事をお礼申し上げねばおられないち言うておられました。ここに石井清子さんの助かりがあったんですね。隣が蔵建てるとこっちは腹立つるち、言う様なのが普通は、いわば人間心なんです。
 ですから信心とはその人間心からです、神心に向かっていく稽古なんですからね。そういう本当に何ち浅ましい心だろうかと。人の幸せをねたむ様なその自分の心にです。もう本当にこう言う事ではおかげにならんと。とそう言う様な心を本気で取り除かせて頂く。それが取り除こうとして取り除くのではないけれども。これにおのずと湧いてくる心なのだからね。けれども本気で私共が改まらせてもらい、磨かせて頂きよりますとですたい。不思議になら私も最近特に、それがもうしきりにもう思われてならない。
 家族が昔私の事を親先生、親先生と言うて本当に、私のためにまぁ私のために一生懸命に大事にして下さり、またおかげを受けていかれた方たちがです。いわばここを疎遠になって、またここを信心をやめて場合によっては、椛目の悪口を言うておると言う様な人達の上でもです。何か知らんけれどしきりとこの頃、思われて思われて仕様が無い。不思議に思うて、祈らなければおられんのだ、その人達のことが。
 そして私が思うのです。はぁこらね椛目にご縁を頂いている皆さんが、本当に助かられるなぁと私が思うんですね。あれがそげなこつば私がこつば言うたちの、ち言うて私はそれに腹の立つ様な事の状態の時にはですね。私自身も助かっていない。私自身がここで助からなければです。皆さんの助かりは私は本当の意味合いにおいて、ありえないと私は思うね。ですからここでは、私が真実助かっていく事を目指さなければならん。皆さんの事を例えば一人一人祈らんでも願わんでも、私が助かっていってですね。
 まぁ言葉を持っていうならばですね。商売敵の誰彼のことでも、祈らなければおられないてね。私に背いていわば出て行った人達のことでもです。やはり後ろからその人達のことを祈らなければおられない。しかもしきりにそれが心に最近は感じられる。という時に、私自身の助かりを自分自身感じます。そしてこれは椛目にご神縁を頂いておる人達が、いよいよ助かることが出来るおかげになってくるなぁと言う風に思うんですね。私は信心とはそういうもんだと思うんです。
 自分が立っていくことのためにはです。人もそれこそ茶碗でも叩き落してからでもと、まぁ生存競争の激しい今日ですからね。そうやっていかなきゃ立ち行かん。それは信心ではないです。本当に一つ自分の子供と人の子供がですね。まぁ一緒にそこでこけたとするならば、人の子供を先に起こさせて頂くと言う様な、心の状態にならせて頂くことを願わせてもらい。そして自分の子供、神様から起こして頂くというところに素晴らしさがあるんです。私が起こしてやった。
 親がね私があんたん事ばこげんして思うとる。こげんして祈ってる。あんたが時にこげんして、あんたの事ば信心してやったから、あんたはこげなおかげを頂いたといや、もうほんなもんじゃない。それは我なんです。そらあんた親じゃけん当たり前たいち、子供が言うならどうなるですか。そりゃ何のこつ子供のこつば、悪かごと親が思うもんがおるもんかい。子供の事ば親切にしたりするとは当たり前たいち、子供が言うね。もう本当に私はその他人の子供を、起こさせて頂けれる様な心の状態になる事をですね。
 おかげを頂かせてもろうてですね。神様から起こして頂いたというところにです、素晴らしさがあるのですよ。いわゆる神様のおかげを頂いてというのはそれなんですね。自分でがまだし出してから儲けでたと言うよりもです。神様のおかげで儲けさせて頂いたと言うのが、どのくらい値打ちがあるか分からんでしょうが。片一方にはもう大変な我が伴うておる。片一方のほうにはただ有難いというものだけしか伴うていないね。信心というのは実に私は不思議なものだとこう思うね。
 本当言うたら直接自分が手を下したほうが、おかげのようにあるけれどもですね。いうならここで私自身が真実、助かることのために言うなら、私の商売敵の人のために、私のことを悪口を言うておる人達のために、私が切実に祈らなければおられない。その人達の助かりを祈らなければおられないと言う事になればです。皆さんの一人ひとりのことを、神様にどうぞどうぞと言うて願うよりも、いわば有難いんだと。効果的だと。おかげはそれのほうが頂くんだと言う事ね。
 それで私があんた達の事ば、お取次ぎしてやって、お願してやったけん、あんただんな助かったばいと言う様なものが無くなってですね。神様のおかげで助けて頂きよると言うことになってくるです。皆さんもおかげなら私もおかげと言う事になるのです。どうぞ一つおかげの受けられない心の取り組みと言う事を申しますけれど。私達の心のなかにそれが多少でも残っておるなら、残っておるその心に取り組ませてもらう。いいや私はもうこの頃、隣近所のこつばっかりお願いしよる。
 もう自分のこつはいっちょんお願いせん。と言いながらです。もし皆さんの助かりがない、おかげがないならばです、そらまぁだほんなもんじゃないと言う事。おかげ頂きたいけんで、隣のこつば願いよるとじゃろね。隣のことはおかげ頂く頂かんじゃない。祈らなければおられんのである。隣に幸せがあったらですね。その隣の幸せのことを、本当に一緒に喜んであげれるような、自分の状態をです有難いと。いよいよそういう心を育てていくところの信心にならなければならんと思うですね。
   どうぞ。